僕の実家は自営業だ。お寺ではない
父と母の二人で経営していたが、母は人間関係、お金、仕事の悩みがあったようで(誰にでもある、極めてポピュラーな悩み)占いや、霊能者?の類に相談に行ってた様子。最終、辿り着いたのがお坊さんであった。
そのお坊さまは、霊能的な要素、占いもやっていたし、何より既存の仏教であるためか、いかがわしさが少なかったように思える。母がどっぷりハマり、のちに家族も巻き込んでいくこととなった
仏教、お寺、坊主…この言葉が持つ印象は何だろう、どんな事を連想する?修行、厳格、座禅、滝行、ストイック、質素、清貧、偉い人、葬儀、法事、死後の世界、知識人。あるいは時代劇に出てくるような裏ではお代官様と繋がり金を貪る悪徳坊主
僕のイメージは、『暗い』と『古い』だった。良いイメージは一切ない。とてだから嫌いというわけでもなく、お坊さまの言われる『正しい事』(主に先祖供養とお寺の行事参加)をやっていれば運が良くなる、願いが叶うと思い込みハマっていく母の姿に違和感もなく、気付けば僕自身もハマっていた。運が良くなるに違いない。という漠然とした気分と、極めて受動的な感情だ
気が付くとネガティブなイメージしかない坊主に成ることとなった。
師匠となる方のこの一言がきっかけで
『いいかい!これからの未来は 心の時代 となる。仏教を学べば、君のやりたい事のすべて、何でもできるようになれる!!』
僕にとっては、キラーワードであった。
心の中で『マジですか!?』そんなにすごいのか?坊主って!…とて、なんか暗い印象だし、お堅い生活ぽいし、何より早起きが無理
ここでさらに一言『仏教を学ぶということは、坊主に成ることではないよ』ダメ押しであった。
なるほど!じゃあ、仏教を学ばない手はない!なんせ、経済と人間関係で苦しむ母を見てた【俺の夢は会社を興し金持ちになること!】
『仏教学びまーす!』ただのアホである。(17歳の夏)
師匠となる方の指示に従いその手続きを。そして気付けば坊主に!?…簡単なトリックだ、仏教を学ぶためには坊主になる必要がある!ということ。十数年後、それは嘘だとわかるが、無知だった僕は、そうゆうものか!くらいであった。
僕はとりたてて信仰心があるわけでもないが、『なりたい自分に成る為』に自身に催眠をかけ神仏、師匠の言葉を信じ切る努力を真剣にやり続けた。将来の自分の為に!心の奥底にある違和感に気づかないようにしながら…
師匠のもとでみっちり24時間365日以上も過ごすと、自己催眠の助けもあり脳内の支配に成功し立派に仏教の信仰らしきものを語れるようになっていた。その後は仏教専門の学校に通い学びながら,お寺で修行と奉公をする生活を5年。宗派の中では、わりとエリートコース?という名の厳し環境を数ヶ所を渡り歩く、精神的な辛さもあり神仏、先祖にすがる気持ちが芽生えていた…これが狙いだったのか!?おそるべしカリスマ教祖な師匠(師匠の元での修行という名の洗脳が最も厳し環境であったことを付け加える。)
さて、修行と学びの中で自らを洗脳しバッキバキに仕上げたが、心の奥底にある違和感はさらに大きく逆に不信感にまで成長していた。とて、修行という名のモラトリアムから出た以上は、坊主として社会貢献…つまり働かなくてはならないわけで、しかし働き方がわからずお寺の職員(社員)として、葬儀、法事をこの先何十年と続けることとなる。途中、紆余曲折はあれども、生活をする為に働くしかない…アレ?願いを何でも叶えられ、社長で金持ちになってるはずの俺はどこにいった?
この間、心の奥底にある違和感をずっと無視してたわけではない。ことあるごとに奥底に出向き扉を開けた
違和感を生み出すもの
師匠からの言葉…『自分自身が変わる事』その土台となる『腹を作る事(肝を座らせる)』。小心者でいつも他人の顔色をうかがいビクビクしている僕は、これには激しく共感した。僕の欲しいものはそれだ!それさえ手に入れれば本当に何でもできる気がした。
この強い感動を動力源として師匠を崇拝した。お経を喉が切れるまで大声で読むことも、水行も、早起きも、動じぬ心を養う『胆力の強い男』となれると信じていた、全力少年?だった。
自分の行動で自分が変わる…この感じは悪くない。いや、むしろそれ以外の方法はないだろう。これを『修行』と呼ぶに違いない。ただし、その行動が的を射てる場合に限る。目的に繋がる道になっていて、効果的な方法を実行する事を仏教の言葉では、『正しい道(八正道)』と表現されている。
正しい道?
お寺での住み込み生活が始まり、自身を変えていき胆力を磨くことに繋がってる修行(今にして思えば、僕自身がかってにそのように解釈しているだけだったようだ)とは別に、神さまのことや、供養の話、毎日懺悔を仏前ですること…そのおこないで少しずつ道が開ける!らしい。これには『悪業の因縁』、先祖から受け継いだ悪い事、自分が日々作る悪い事を断ち切らなければ、道は開けない!らしい。師匠自身がそのようにして今のカリスマ教祖と成れたのだ。と毎日のように『ありがたい?話』を聞かされる…夜中まで(早く寝ようぜ、早起きが辛い)腑には落ちないが、きっと僕が無知で経験不足に違いないと言い聞かせる日々。
※余談ではあるが、お寺の敷地内から、許可なき時以外は外にでてはいけないルールがあった。みんなが寝静まったころ抜け出し田んぼ道を歩いた…周りは何もない田舎、気分的に外に出た感覚を味わはないとやってけない。(あぁ今日も寝不足だ)
悪業の因縁を断ち切る為に神に仏に手を合わせお経を唱え、懺悔している姿を 俯瞰している僕は、その姿に惨めさを見る。何かにすがるのが修行なのか?……『肝が据わる』ようになれる映像が浮かばない。自身を磨き変容する事と、『因縁を切る』『先祖の供養をする』『神に手を合わせること』…何かがしっくりこない。論理的にあたかも繋がっているように聞こえなくもないが…知識が足りない
※そもそも『修行』というと聞こえはいいが、修行って何よ?…これも後に坊主の修行の正体がわかる。
圧倒的知識不足、仏教では無知を『無明』ともいい、苦の根源である。これは納得!というわけで、しっくりこないことを明らかにする為に、先輩の僧侶(坊主)や、自称霊能者等に教えを請い(この二つは超の付く最悪であった。迷いが倍増したからだ)、あらゆるジャンルで書籍を読んだ。宗教的な怪しいものから、哲学、思想、占い、ビジネス書(主にマインドに繋がるもの)、心理学、歴史、科学、自然、物理や数学にいたるまで、僕の違和感を埋めるヒント、答えになりそうと感じたものは全て。
違和感は、宗教者(巷の仏教も)の話のロジックを組み立てていくと、必ず矛盾が生じる。この矛盾を宗教は『神(超越者)』にこかす。ぼんやりしたものでつつみ隠すのが常套手段。ここに違和感を感じつつも、『神』という絶対的な存在にひれ伏す習慣が身に付き心に染み込んでいた僕は、とりあえず働けてて飯が食えているからそれでいっか…悶々とした気分は晴れないままに
振り返ると違和感の正体を一言で表現すると『神』に引っ掛かっていた!と云える。(釈迦の悟りと元来の仏教には、神も仏も菩薩も出てこない事を付け加える)
悶々としながら坊主を続けるのか?悶々を取り払うのか
悶々を取り払うた為には、3つの方法があるか?
1は、坊主を辞めて、悶々の原因である環境から離れること。この選択を実行した結果、見事に失敗し全てを失った。人生最大のどん底、自暴自棄な時間を数年過ごしたのち、坊主としてマイナスからやり直す事となる、とりあえずは食べていくために
2は矛盾を正していく布教をする。しかし日本仏教は文化であり、歴史だ。教えとして正す必要があるのか?いや、無いな
3には既存の仏教から離れ、自分の信じる事を発信する。共感されなくとも、ただただ、僕の気付きを発信する。
頭はクリアにできている。知識と論理で武装して。しかし、心に打ち込んだクサビがなかなか外ずせない。恐怖で身体が動かない。前回の失敗もあり、全く行動のできない人間になっていた。もっと時間が経てば恐怖が小さくなる、無くなる。と…胆力を磨くとは真逆だった。
時間が経てば経つほど、行動できなくなり、恐怖も膨れ上がる。行動しない言い訳を並べていた。そんなことに気付かず、逆に小心者の心を大きく育ててしまった。
このままではダメだ!一度きりの人生、怖いけど行動することに決めた。岡本太郎先生の言葉『怖いと思う方へ進め!』
胆力をつけ、なりたい自分を目指し後悔しないように
だから、僕は『坊主を辞めて、坊主となる』僕の理想とする『シンの坊主』は今の道の先には無い。
3を選ぶ
理想を叶える為に。